本当の死は忘れられた時というけど、一人に忘れられたら少しずつ死ぬと言えるのか?

なんとなくクソリプを送るために「人はいつ死ぬと思う…?人に忘れられた時だ」(ドン!)の画像を探していたんですよ。

有名な漫画の有名なシーンなのですぐに見つかりました。
ワンピースの有名なシーンです。

チョッパーの師匠(だったのかな)ドクターヒルルクが、不治の病に侵された上に猛毒のきのこスープを飲んで、銃を持った兵士に取り囲まれているシーンでのセリフです。

子供の頃に読んで「何言ってんだろう?死ぬよ!」って思いましたが
最近ヒルルクの言う死がなんなのかちょっとわかってきたような気がします。

「ここで死んでも自分の魂や思いは死なない」そういう意味でしょうかね。

そしたらふと思ったんです。
人に忘れられた時に死ぬなら、大切な人に忘れられたら自分の数%が死ぬのか?

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あいか

noteに書いてもよかったんだけどこっちに書こうかな

人に忘れられた時に死ぬというのはいい言葉だと思う

「死んだ時が死だよ」と私は自身は思うわけですが…。
死んだら何も言えなくなるしね。何も食べれないしね。

ただ別の視点から考えると、たしかにそうかも。と思えるようになってきました。
生物的な死と、ヒルルクのセリフの死は種類が違う死ですよね。

私は印象派の絵画が好きで、たまに美術館に足を運びます。

生きたこともない時代・場所の絵を見て絵の感想を喋ったり、どういう気持ちで、どんな場所を見て描いたんだろう…とか考えるんですね。

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あいか

名前すら知らない画家とかも、素敵な絵ならすごく考えます

そう言う事をしていると、確かに「この中絵画では生きている」んじゃないかってヒルルクの言った事

これが全く無くなった時に初めて死と言えるものもあるのではないかと最近思えてきました。(子供の頃はこの人何言ってるんだろう…でも泣ける…って思ってました)

ヒルルクも、自分の意思を引き継いでくれる人がいるから「思想としての自分は死なない」と言いたかったんでしょう。

芸術家に限ったわけではなく、例えば昔の写真に写っているおばあちゃんや家族写真とか見ても「ああ…こう言う事を言う人だったよね」なんて親戚や家族で話す事ありますよね。

それが一切無くなってしまったら……現実世界から「居た」事を全て忘れられてしまった時に本当に死ぬ。

確かにそう言う考えもあるのかなぁと頷けます。

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あいか

普通にいきてる人なら、孫の孫くらいまでは話に上がったりするのかな…?

リメンバー・ミーでは「人の死は3回」訪れる

漫画の話だけするのもあれなので、別の作品の似ている死生観を紹介します。

メキシコの死者の日を描いたアニメ映画「リメンバー・ミー」にもとても似た表現が出てきます。

リメンバーミーの「死者の世界」の決まり

死ぬと人は死者の国へ行き、そこで楽しく生活!
年に1度の「死者の日」に自分の写真が飾られた祭壇があれば、現世に行って家族の顔が見える!

死者の国の住人は、自分が覚えてる人がいる限り死なないけど
覚えてる人が0人になると「2度目の死」を迎えて消えてしまう。

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あいか

映画の内容は割愛します!

「人間には“三つの死”がある、という考えを聞いた。一度目は心臓が止まった時、二度目は埋葬や火葬をされた時、三度目は人々がその人のことを忘れてしまった時だ。僕の心が最も痛んだのは、三度目の“最終的な死”だった。生きている人たちの中に、自分のことを覚えている人がもう誰も残っていない時、人は永遠に死ぬんだ。それは本当だ。僕たちには皆、もう知らない遠い昔にさかのぼる親戚たちがいる。彼らはある意味、失われ、忘れ去られている」

人が本当に死ぬのは忘れ去られた時…『リメンバー・ミー』の死生観

これはリメンバー・ミーの監督が現地でリサーチをして得た「メキシコの人の話」だそう。

  • 心臓が止まった時
  • 埋葬・火葬をされた時
  • 人々に忘れられた時

この3つ目が訪れた時に「真の死」を迎えると考えられているそうです。
ひいひいおばあちゃん…くらいの会った事がない親族の話って、殆どしませんよね。
母親の口から聞くことがあっても、自分の口から出る事はないし聞かなきゃ殆ど思い出すことも……。

そうやって人は人の中から消えて死んでいく。
それが3回目の死。

そういう考え方は漫画を読んだり、絵画鑑賞でなんとなく持ち出した「私の死生観」とも似ているなって思いました。

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あいか

たぶん皆どこかで思ってることなんじゃないかな

超オススメ。メキシコいきたい

メキシコの明るい死者の世界の捉え方や祖先への考えとても良いからちょっと暗い気持ちの時に見て欲しい。

大事な人に忘れられたら自分の一部が死ぬのか?

絵画を見たり写真を見たりして、死者の事を想う…だから「思想的に」生きているっていう考えがある…と長々と書いていきました。

そろそろタイトルにもしてるコレについて書いていきたい。

そもそもコレを書いたのはさらっとブログ記事を更新したいという思惑もあったんだけど……おばあちゃんがボケてきています。

それが悲しくて、色々と考えたりしながら書いてるんです。
書いてるとなんとなく悲しさが薄れるような気がして…。

参考

おばあちゃんの事を書いたnote>>今年が最後だから。

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あいか

今まで身近な人で認知症になった人がいなくてかなりショックです

この間「誰?」って言われたらどうしようかな…って思いながら会いに行ったら、まだ覚えてくれていたので、ホッとしましたが…

  • 誰か一人でも覚えていてくれたら第三の死は訪れない。
  • そう言う意味では著名な人ほど長生き

という考えがあるなら、誰かに忘れられるたびに少しずつ死んでいく。
こう言う考えもあるんじゃないかなって思う訳です。

別にねクラスで一緒だった子とか、昔よく行ってたお店の店主とか、部活が一緒だったけどほとんど喋らなかった子とか……。

そういう人たちの事は私も忘れてしまうし、忘れられることはよくありますよ。
その度に死んでいくとかメンドクサイ事は思わないんです。

でも生まれた頃から自分を知っている人が、自分の事を忘れてしまうのってめちゃくちゃ痛いです。

あ、これはダメージ相当受けてる。って思いましたもん。

この痛みを言い換えるなら、自分の一部が死んでいくってのが一番いいのかもしれないな、と思いました。

手紙とか写真とか、残るものにしていこうかな

人の記憶ってあいまいなもので、都合のいいように改ざんされたり、忘れたりしてます。

私は子供の頃の記憶があんまりなさすぎて、人に「やばいかなぁ」って相談したことさえあります…。
これ70とかになったら認知症になっちゃうんじゃない?って今から震えてるんですよね…記憶がなくなるの怖い…。

認知症とはまた全然違う「覚えなくていいと思うから覚えない」「辛い事は忘れる」みたいなものだと思うんですけど、自分がいつか色々と忘れてしまう時がきてしまった時のために、写真を残そうかなと考えました。

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あいか

うちのおばあちゃんは手紙が好きで、手紙を通すと昔のようにやりとりができます。

絵画とかじゃないけど「目で見えてそこにあるもの」の力って大きいんじゃないかなって。
とりあえず置物になってたミラーレス一眼の充電池を充電して写真の撮り方をゆるく練習しようかなと思います。

あとおばあちゃんに定期的に会いにいく事も続けようかなと。
忘れられちゃったら、辛くていけなくなるかもしれないですけどね。

では!

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